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中山:でも、僕自身は事務所に入った頃はすごく抵抗がありましたよ。「もっとこう向かい入れるよう感じの曲線で・・・」みたいな話はすごく苦手でした。そんなものよりも、「教会も原型は納屋だった」っていうようなことの方がよっぽど清々しいっていうのは今もあります。感覚的なことがらは発見的に見出されるべきものであって、建築が先回りして埋め込んでおくことは気味が悪いと思っていたわけです。でも、だからといってシミュレーション技術とか、それらが連動するアルゴリズムを定義していくことが客観的な視座を固めてくれるのかというと、それはもっと嘘っぽいな、っていうふうにも同時に思っていました。気味が悪いとは言っても、日常的な印象論みたいなものは会話を滑らかにするし、論点がどんどん変化しながら展開していくのが会話ですよね。だからなんとなく、印象論を嫌って、決定根拠の源流に遡っていこうというようなプレッシャーを建築家が発散するよりも、印象論みたいなものが自由に生み出され続けていく空間のなかで建築が建っていく、っていう時間のほうが、作り方としてちゃんと機能するかも、って思ったんですね。

藤村:松川昌平さんとずっと議論していることのなかに「決定の妥当性」の問題があります。もし与条件のなかで考えられるかぎりのヴァリエーションを出し尽くすアルゴリズムがあり、そのヴァリエーションを淘汰するもうひとつのアルゴリズムがあれば最終形の妥当性がいえる、と松川さんはいうのですが、その淘汰型の設計プロセスを描くためにはとても高度なアルゴリズムを見出さなければならず、それがネックになっているという気もするんです。他方でさきほどの中山さんのお話は、ある種の恣意性を肯定するかわりに、かなりシンプルな方法論に留まっているように聞こえるんです。

中山:うん、そうですね。僕の話はごくごく初期の経験談として聞いて下さい。道具を渡された人がはじめのうちどう振る舞ったかっていう。