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・よく「曲がったキュウリ」のことが語られる。
 運搬や貯蔵のためだけでなく、
 ぐねぐねと曲がったキュウリは、
 消費者にとって「商品」として認められないという。
 いま、青果店などで「曲がったキュウリ」は、
 まず売ってないから、じぶんがそれを
 消費者として認めるかどうかさえ、確かめられない。
 曲がってようが、まっすぐだろうが、キュウリである。
 しかし、「キュウリという商品」ではない、のだ。
 
 ポイントは「商品」ということばだ。 
 「もの」として「サービス」としては成り立つけれど、
 商品としては成り立たないというものが、
 どんどん増えてきたような気がする。
 もともとは、「商品」として成立するかどうかではなく、
 「商品」として競争力があるかどうかだったのだと思う。
 「うちのキュウリは、曲がってないんですよ」
 という「優位性」を強調していただけだったのだろう。
 いわば「品質競争」の次元だった。
 しかし、それは「価格競争」のように、
 どんどんエスカレートしていった。
 やがて、「曲がってない」ことの優位を語るのではなく、
 「曲がったキュウリ」を
 競争に参加できなくさせてしまった。
 キュウリという「商品」の必要条件は、
 「曲がってない」ことになってしまったわけだ。
 
 しかし、「商品」としては失格かもしれないが、
 それは「キュウリ」でない、わけではない。
 曲がり方に芸があるとか、曲がってるほうがうまいとか、
 そういう発見があれば、それは「商品」として復活する。
 「商品」であること、って、すべてじゃないんだよねー。
 キュウリは、商品であろうとしなくてもキュウリだ。
 「商品」なんて概念がないところでも、キュウリはある。
 なんだか、あらゆるものが「商品」という考え方は、
 期間と地域限定のものだったような気がするんだ。
 
 ややや思えば、「人間」も「愛」も「親切」も、
 「商品」としては欠陥品だ。
 万人に平等でもないし、均質でもないもんな。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
谷川俊太郎さんと、飛行機に乗っかって鳥取に行きます。