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0719

さあ三ヶ月経ったわけだがいかがだったろうか俺。気楽に過ごそうと思えば土地勘や友達も徐々に増えそれなりだったと思う。しかし己の前向きな気持ちと自己統制と仕事のなんたらがアンバランスというか悶々としているというか思い返せば地に足がついていない、というのが最も言い得ています。良さそうな話に食いつきそうになる。コツコツやらなきゃ何も蓄積しないはずなのに。でもコツコツやってるひとが全て思い通り(すくなくとも客観的に見てうまくいってるねと言われるレベルに過ぎないけど)かといえば絶対違う。その逆もしかり上手くいっているように見えるひとが自分の看板背負う時には歯車狂っちゃうみたいな。これあんまり環境のせいにしちゃいけないしかといって我慢すりゃ良いってわけじゃない。やはり己の良きところで決めていかなきゃいけないんだろう。
震災があってから自分のリズムが確実に何か変わった。この日記も気軽に感じたことを書けなくなった。そして、ツイッターなんかもなんだか見る目が変わった。「沈んでいく日本」みたいなつぶやきが時々見受けられる。「経済まわし」なんていう言葉も踊るほど、未曾有の事が起きたなかで「楽しむ」ということの空気がとにかく変わった。僕をとりまくデザイナーやクリエイターという職種の中の空気も「なんだかこの先、いったいどうなっちゃうんだろうか」という不安と「このままいい感じで復興していって上向きになるといいな」なんていう期待感と「もしかしたらこんなことしている場合じゃないのかもしれないな」なんていう釈然としない気持ちが入り乱れながら、それでもどこか目の前にある仕事に気分をそらしながら毎日を過ごしている。日に日にテレビは震災以前のバラエティが戻ってきて、一見、「もう大丈夫」かのような錯覚を覚えさせる。そういう錯覚の隙間に、深刻な原発のニュースや海外の紛争のニュース、経済の混乱の報道などが滑り込んでくる。おちおちしていられないような気分のそのすぐ後に、「なんちゃって」なんて言われてしまうくらいの呑気な娯楽がまた繰り返される。きっと発信する側もそういうのんきな気分なものを流さないと「もたない」と思えるほど、この国は誰の目から見てもボロボロだ。ひとついえることはこんなにも「電気」「経済」「お金」「暮らし」「自然災害」について考えたことはいままでになく、おそらく本来知っておくべきことで知らなかったことが多い事を気づけたこととして教訓として深く刻まれた。今、僕自身デザイナーとしてやっておきたいこととはズバリ「後進の育成」だ。これは震災前から意識してきたことだけど、震災後はよりその気持ちは強くなった。育成すべきは「デジタル時代の渡世術」でも「ウケる映像コンテンツのセオリー」でもない。育成すべきは考え方としての「誠実な仕事のしかた」なのかもしれない。それは単純に清廉潔白な仕事ということではない。僕はもともとクリエイションの現場にある一種の「不良性」は好きだ。デザイナーはやんちゃであれ、と思う。お世辞にも僕自身これまで優等生なんかではない。誠実な、というのは「自分にごまかしのない」ということに近い。デザイナーは不確実な情報に振り回されることなく、意志を強く、自分の体験から得た説得力のあるものづくりを、楽しみながら、細く長く続けることで、あるひとつの成果が出せるんじゃないかと思うのです。ボロボロになっちゃったものをよりよくするのはデザイナーは得意なはずです。僕は「復活を楽しんで仕事をする」なんていうのはデザイナーらしくていいと思う。この空気はこれから長い時間つきあっていかなければいけない。育成っていう仕事は今現場にいるデザイナーが仕事を楽しむための手段として意識したいおおきな仕事だと思う。