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散髪飯田橋のみ嘔吐野宿嘔吐ニアデス体験
なんか…こんな意見を公の場に晒け出すのは良くないこと、とても恥ずかしいことかもしれませんが、どうしても書きたくなってしまったのです。今の日本というより、今の世界って変じゃないですか?毎日のように人が人を殺してて、それを問題視していないメディアがあって、それに流されている国民がいて、隣の人が何をやっているのかとか全然気にも止めてなくて、でも、そんな世界が当たり前として成立している。決まってインタビューされてた人はこういいます。「殺人なんてするような人にはみえなかったけどね…。」正直言って異常です。精神が麻痺しているというか、人間が麻痺しているとしか思えない。一番僕が耳を疑ったのが、「それでも日本は治安がいい方やんな」この言葉です。愕然としました。ここまで認識の違いがあるのかと。日常的に人が人を殺すというこの異常な状態をまるで客観視している。こんな異常なことが自分たちの日常に浸透していることに何の疑念も抱いていない。「都市と建築を考える」から「人の命」ってwordが出てくるとは思わなかったって…命とかを建築とどうやって切り離して考えているわけ?それって人間と建築を切り離して考えてないですか?じゃあ、何を考えて設計をやっているわけ?ゲニウス・ロキ?コミュニティ?アフォーダンスパターンランゲージセミラティス?この建築は記号論的にどうだとか、設計手法がどうだとか、そんなこと二の次にしませんか。まず人を見ましょうよ。人間を考えましょうよ。そのためには、技術の高度発達化に伴う分業化。意匠や施工、構造、設備を担当分けするんじゃなくて、もっといろんなことを知っていないと駄目なんだと思います。だって「難しすぎてわからんからお前に任せる」とか、自分の能力の足りなさを開き直っているようにしか聞こえなくて…そんなことを胸張って言う人間は「建築」を目指すべきではないと思います。自分で自分をバカだと認識することは絶対に必要です。けど、バカはバカなりに自分をバカだと認識したそのあと、自分で学ぼうとしなければならないと思います。構造の話されても専門じゃないしわからん、都市計画の話されても規模が大きすぎてわからん、法規的・実務的なことを話されても経験ないからわからん、じゃああなたは何を知っているのですか?建築の意匠の話なんて「建築」という概念のほんの一握りの分にも満たないかもしれないのに…自分の中で神格化した建築家の建築説明書を読んでるだけで、あたかも自分の中で建築を構築したような論理を語るなんて、バカげているとしか言えないです。だいたい都市計画や構造の考えなしでどうやって建物を考えているわけ?そんなテクニックがあるのですか?日本の大学ではそんな意味のわからないテクニックを教えているのですか?だとしたら日本の終わりは時間の問題ですね。社会的地位を持つ教授ともあろう人間が、次世代を担う若者にそんなバカげたテクニックをあたかも絶対的建築家の素養として教育しているのが日本の実態ならもう日本の建築に希望はありません。そんなテクニック…くそです。大学の講義なんか受けたって無駄っていうなら、実務にでなよ。今の時代安くてもいいなら現場で働かせてもらえるから。建築の講義が無駄だと思うなら他の学科の講義を受けなよ。土木でも、環境でも、数学でも、物理でも、医学でも、なんでもここにはあるんだから。建築だけではないことを知るべきです。そういう心掛けができる人に「建築はつくられる」べきではないでしょうか。だって、建築は人のためにつくられた「言葉」なのだから。僕は、僕が好きな「建築」のなかで殺人なんて起きてほしくないし、極論を言えば、「建築」で人を直したい。治したいし直したい。確かに理想都市のイメージとは?ビジョンとは?の質問に明確に答えられなかったのは、僕がまだまだ人間として未熟だからという言い訳になってしまうけど、それでも今の都市や建築が、今の人に良い影響を与えているとは全くもって思えないわけで…(直球で言うと害を与えているようにしか思えなくて…)相手の事をなんも知らないのに”使い分け”とか”便宜上”なんていう都合のいい言葉で社会を切り捨てるのはやっぱり間違っていると思うんですよ。相手を知っているからこそ違いが分かるわけだし、だからこそ僕は、自分で一歩踏み出さなきゃいけない、学ばなきゃいけないと思ったわけで…。理想主義者って言われてもいいです。だた、「建築をつくるコト」って理想を現実世界に作り出す事じゃないですか。ユートピア思想論が通用しない時代ほど面白くない時代はないし、でも今はそんな時代じゃないと僕は信じているのです。成し遂げたい夢があるなら、その夢を実現するための術を学ぶことに全力を注ぐべきではないでしょうか。そのためにいろんな事を勉強してるんですよ、僕は