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デリケートで抽象的な感性がもちだされて、新しい体験の地平が見事に拓かれたと思えば、一方で実に具体的で説得力に富んだ現時代的な方法論が組み立てられ、先見的な到達点が標榜される。面白い。ただ、それらはどれだけの事由をもつのだろうか。つまり、それは建築にとって真か。これは当たり前であると信じたいが、むろん建築という営為は、第一義にわれわれの構築意志の表象であり、と同時に意識せざる世界了解の表れである。意志を創出したり、先だった世界了解を例示してみることではない。「いま・ここ」という世界の意味合いを、建築(われわれ)がいかに記述し帰納するか、である。建築は、なにか大きなテーマ/フロンティアが模索/画策されるような対象ではない。あるのはただ彼の局所的、かつ自発的な進化/深化であり、にもかかわらずそのことがモードの都合に覆われ忘却されてしまうのならば、われわれはそれを嘆かなければならない。建築は、つねに/すでに、われわれの内側から営まれている。内側からしか営まれない。当然ながらわれわれ自身が、つねに/すでに、建築の「眼」なのだ。語られるべきはその重大さと責任、そして切迫である。それはほんとうに、もっと濁音で、泥臭く、生々しいものであるというのに。ほとんど憤りに近い形で