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10+1 no.42
p044
共有を目的としたメタな名前で呼ぶこと、地形とか谷といった概念を鳥の目とする。地面からは見ることが出来ないのに、そう呼んだ途端に自分がその中にいる、自明のもののように感じてしまう。集まったテキストもそれぞれ面白いけども、タイトルがついて目次に収まって、書店に並ぶと、もう鳥の目になる。虫の目の獲得は、鳥の目を常に翻訳しないと駄目。虫の目に分解されないと使えない。
p047
ローラーブレードを履いて街に出た時の感覚って、まさにそういうことじゃないですか。見えなかった起伏が見えたりする、と同時に自分の振る舞いも変化する。これは一種のフィードバックで身体がデヴァイスで拡張されて、その結果地形が別の意味を帯びて、その新しい意味を帯びた地形と自分の拡張された身体との関係がまた自分に返ってくる。
p048
鳥の目と虫の目は離れたままでくっつくわけじゃない。離れていることでいろんなルートが書けるわけですよ。それがなくなるとひとつのルートしかなくなってしまうから。そのギャップこそが僕らの工夫の余地である。
p091
一見不動に見えるこの都市構造は、鉱物の流動現象という「鉱物の時間」を尺度として再び覗き込むことで、どのようなことが見えてくるのか。変哲の無い石ころひとつにも地球という天体の歴史が克明に記されている。鉱物の形は一瞬も静止すること無く変化している。素材は絶えず循環している。
p098
新しいものの大半は、「あなたはまだ持っていない」という「ないものの指摘」という形で近づいてくる。人間を何か持っていない存在として捉え、不足感を手がかりに手招きする。でも単なる移動時間も「旅」だと捉えた途端、違う豊かさを帯びる。面白いこと大事なことは余所にあるわけじゃなくて、ここにすでにある。ものをデザインするというよりも、どのような経験を作るのか。
p100
私たちはさまざまな場面で、誰かによって埋められた、或いは自然に埋もれてしまった裏側の気配を感じている。ここまで述べてきた視点は「埋葬の手順」であり、埋めることすなわち「不可視化=見えなくする」という操作と、墓碑を建てることすなわち「可視化=見えるようにする」という操作の狭間にある△表層の解像度が微かに抽象的な場合に、鑑賞者の思考の解像度が最も高まった。これは綺麗な桜の木がある庭に家を建てるとき、その桜を切り取るための窓をつくる場合も同じ。窓を穿つことは一見外を見るために行う可視化の操作ですが、風景を切り取るという意味においては同時に、周囲の風景を壁によって不可視化するということでもある。窓が大きすぎれば他の植物や借景の建物が見えてしまうかもしれないし、窓が小さすぎれば桜の木が見えにくくなってしまうかもしれない。日常の中から物事の裏に潜む気配を探し、可視化不可視化の際で切り取ること。
p129
具体的な構法によって建ち上げられた風景を、思考実験として意識の上で解体するのである。そのことはまた、風景の再構築の可能性を担保することになる。
p140
日本海側の大きく切れ込んだ山間にひそむ小さな村落を見る時、いまだに、その鋭く際立った地形に張り付くように村ができ、棚田がまるで走り水のように展開し、漁村は海へ糧を採りに行こうとする欲望をそのままかたちにして沿岸に張り付いている。むしろ筆者が見つけたかったのは、そのような固定的な集落あるいは都市の形態タイプ分類ではなかった。都市の多様なかたちを実際に生み出している最小限の条件、あるいは根源とでもいうべき〈何か〉であった。集落が人間の思惑を含み、またそれすらも超えて次第に都市へと不可避的に自己生成していくような基点が必ず存在しているように思えたのだ。